「大丈夫だと思っていた」——65歳のパートさんが滑った日
夕方のピークが終わって、厨房の洗い場を片付けていたとき。
65歳のパートさんが、床にこぼれた油で足を滑らせた。とっさに手をついたが、右手首を骨折。全治3ヶ月。
労災保険で治療費は出た。休業補償も出た。でもそれだけでは済まなかった。
- パートさんの分のシフトを埋めるための 急募求人費:8万円
- 代わりの人が見つかるまでの オーナーの残業:月60時間
- ご本人への お見舞い・菓子折り:1万5千円
- 厨房の 油汚れ対策マット購入:2万円
合計10万円以上、さらにオーナーの体力が削られた。
これがもし、3,000円の防滑靴を買っていたら防げていた事故だったとしたら。
2026年4月、何が変わるのか
改正労働安全衛生法の中身
2026年4月1日から、すべての事業者に対して 「高年齢労働者の特性に配慮した労災防止措置」 が努力義務になる。
ポイントを整理する。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 施行日 | 2026年4月1日 |
| 対象 | すべての事業者(個人飲食店も含む) |
| 義務の種類 | 努力義務(罰則なし) |
| 主な内容 | 転倒防止、作業環境改善、健康把握、安全教育 |
「努力義務だから関係ない」は危険
「努力義務なら罰則ないし、別にいいんじゃない?」
そう思うかもしれない。でも、実際に事故が起きたとき、裁判所は 「努力義務に対してどんな対策をとっていたか」 を見る。
何も対策していなかったら、安全配慮義務違反と判断される可能性がある。その場合、労災保険とは別に 損害賠償(慰謝料・逸失利益)を請求される。
つまり、「やっていたかどうか」の証拠が大事になる。
飲食店で本当に多い事故──数字で見る
転倒が圧倒的に多い
2024年の全産業の労働災害で、最も多い事故は「転倒」で全体の26.8%(約36,000人)。
飲食店の場合、転倒の原因はほぼ決まっている。
| 原因 | よくある場面 |
|---|---|
| 床の水濡れ | 洗い場の周辺、厨房の排水溝付近 |
| 油はね | フライヤーの前、炒め物の調理台 |
| 段差 | ホールと厨房の境目、裏口の段差 |
| 急ぎ足 | ピーク時の移動、料理の配膳 |
60代以上は「転んだら重い」
若い人が滑っても、打撲で済むことが多い。でも60代以上の場合——
- 骨折に至る割合が高い
- 休業日数が長い(打撲の平均2週間 vs 骨折の平均3ヶ月)
- 復帰後も以前と同じ動きができないことがある
60歳代以上の死傷年千人率は 4.022 で、全年齢平均を大きく上回っている。年齢が上がるほど、同じ事故でもダメージが大きくなる。
飲食店の5つの対策──お金をかけずにできることから
① 防滑靴を全スタッフに支給する
最も効果が大きく、最も安い対策がこれ。
| メーカー | 商品例 | 価格帯 |
|---|---|---|
| ミドリ安全 | ハイグリップ H-700N | 3,500〜5,000円 |
| アシックス | ウィンジョブ CP700 | 5,000〜8,000円 |
| アキレス | クッキングメイト | 3,000〜4,500円 |
スタッフ5人に支給しても 2万〜4万円。先ほどの転倒事故の被害額(10万円以上)と比べれば、圧倒的に安い。
ワークマンやAmazonで買える。 特別な手続きは要らない。
② 厨房の「濡れスポット」をなくす
転倒事故の大半は、床が濡れている場所で起きる。
- 洗い場の周辺に 吸水マットを敷く(1枚2,000〜5,000円)
- 排水溝の周りを こまめに拭く(ルール化する)
- フライヤーの前に 油はね防止マットを敷く
③ 段差に「黄色テープ」を貼る
ホールと厨房の境目、裏口の段差——普段は体が覚えているから問題ない。でも、忙しいときやピーク中は見逃す。
100円ショップの 黄色の反射テープ を段差に貼るだけで、視認性が格段に上がる。費用:数百円。
④ フライヤー周りの安全ルールを決める
火傷事故は、フライヤー周りで起きることが多い。
- フライヤー使用時は 耐熱手袋を着用
- 長エプロンで脚を保護
- 油の温度が上がりすぎないよう 温度設定を確認
- 新しいスタッフには 必ず実演指導
⑤ 「安全チェックリスト」を壁に貼る
厚生労働省の エイジフレンドリーガイドライン を元に、自分の店に合ったチェックリストを作る。
開店前チェック(例)
- 厨房の床は乾いているか
- 排水溝にゴミが詰まっていないか
- 段差の黄色テープは剥がれていないか
- フライヤーの油量は適切か
- 包丁は安全な場所に収納されているか
これを紙に印刷して壁に貼る。それだけで 「対策をしていた」という証拠 になる。
エイジフレンドリー補助金──最大100万円もらえる
補助金の概要
60歳以上のスタッフを1人でも雇っている中小企業なら、使える可能性がある。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 対象 | 60歳以上の労働者を常時1名以上雇用する中小企業 |
| 補助率 | 4/5(80%) |
| 上限額 | 100万円 |
| 対象経費 | 転倒防止(床改修、手すり)、安全靴、照明改善、体力チェック等 |
| 申請時期 | 毎年5月頃〜10月末頃(予算消化次第で早期終了) |
飲食店での活用例
| 対策内容 | 費用 | 補助後の自己負担 |
|---|---|---|
| 防滑靴5足 | 25,000円 | 5,000円 |
| 厨房の手すり設置 | 80,000円 | 16,000円 |
| 滑りにくい床材への改修 | 200,000円 | 40,000円 |
| 防滑マット10枚 | 30,000円 | 6,000円 |
| 合計 | 335,000円 | 67,000円 |
33万円の対策が 自己負担6.7万円 で済む。
申請のポイント
- 予算がなくなり次第終了 するので、5月の受付開始直後に申請する
- 申請前に厚生労働省のサイトか、最寄りの産業保健総合支援センターに相談すると確実
- 「何を買うか」「なぜ必要か」の計画書が必要。難しければ、社会保険労務士に相談(1〜3万円程度)
「うちにシニアはいないから関係ない」と思ったあなたへ
いま60代のスタッフがいなくても、この記事は関係がある。
なぜなら、2027年問題で労働人口が急減する中、40代・50代・60代の採用は今後避けて通れなくなるからだ。
2023年時点で、65歳以上の就業者数は 914万人で過去最多。「60代で働く」のは、もはや特別なことじゃない。
いま安全対策をしておけば、将来60代のスタッフを迎え入れたときに 「うちの店は安全対策をちゃんとしています」 と言える。それは採用における強力なアピールポイントになる。
チェックリスト:今週やること
- 厨房の床で「滑りやすい場所」を3つ書き出す
- その場所にマットを敷くか、拭き掃除のルールを決める
- 段差がある場所に黄色テープを貼る
- スタッフが普通の靴で厨房に入っていたら、防滑靴の購入を検討する
- 60歳以上のスタッフがいたら「エイジフレンドリー補助金」を検索する
全部やっても1時間。費用は数千円。
それで、従業員の安全と、あなたの経営を守れる。