「労基署から手紙が来た」──1人雇っただけなのに
知り合いが小さなラーメン屋を始めたときの話です。
開業して3ヶ月、ランチの忙しさに1人では回せなくなり、大学生のアルバイトを1人雇った。週3日、1日5時間。時給1,200円。
「小さい店だし、バイト1人だけだし、保険とか関係ないでしょ」。
2ヶ月後、労働基準監督署から封書が届いた。中身は労働保険の加入勧奨。無視していたらもう一度来て、今度は「調査に伺います」と書いてあった。
慌てて社会保険労務士に相談したら、こう言われた。
「アルバイト1人でも、雇った翌日から10日以内に届出が必要です。 すでに期限を過ぎているので、今からでもすぐ手続きしてください」
結局、遡って保険料を支払い、手続きを完了させた。金額はそこまで大きくなかったが、知らなかったせいで「行政からの指導」という経験をすることになった。
従業員を雇うときに加入が必要な保険は、実は3種類あります。そして、「どれに入るか」は店の形態と従業員の働き方で決まる。
この記事では、飲食店のオーナーが最低限知っておくべき保険の全体像を、できるだけシンプルに整理します。
まず全体像──3種類の保険と加入義務
飲食店の従業員に関わる保険は大きく3つ。
| 保険の種類 | 加入義務の条件 | 保険料は誰が払う? | 届出先 |
|---|---|---|---|
| ①労災保険 | 従業員1人でも雇ったら必須 | 全額お店が負担 | 労働基準監督署 |
| ②雇用保険 | 週20時間以上 かつ 31日以上の雇用見込み | お店と従業員で折半(お店が多め) | ハローワーク |
| ③社会保険(健康保険+厚生年金) | 法人は必須 / 個人経営は任意 | お店と従業員で半々 | 年金事務所 |
ポイント:「うちは個人経営だから社会保険は入らなくていい」はその通り。ただし、労災保険と雇用保険は個人経営でも義務。 この区別がわかっていない人が、冒頭のような失敗をする。
①労災保険──1人でも雇ったら、問答無用で加入
労災保険とは?
従業員が仕事中や通勤中にケガをしたり、病気になったときに、治療費や休業中の給料の一部を補償する制度。
飲食店は包丁、フライヤー、滑りやすい床と、事故のリスクが高い業種。実際、厚生労働省の「労働災害発生状況」では、飲食サービス業の労働災害は年間1万件超で推移しています。
加入条件
- 従業員を1人でも雇った時点で義務
- アルバイト、パート、日雇い——雇用形態は一切関係なし
- 週何時間でも関係なし(週1日、3時間だけのバイトでも対象)
保険料
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 保険料率(飲食業) | 給与総額の 0.3%(3/1,000) |
| 負担 | 全額お店が負担(従業員の天引きなし) |
| 令和8年度 | 令和7年度と同率(変更なし) |
計算例: 月給20万円のアルバイトが1人 → 月の保険料 = 200,000円 × 0.3% = 月600円
年間でも約7,200円。金額は決して高くない。でも、入っていないと大変なことになる。
未加入のリスク
従業員がケガをしたとき、未加入だと:
- 治療費・休業補償を事業主が全額自己負担(労災保険から給付されない)
- 厚生労働省の「費用徴収制度」で遡って保険料を徴収
- さらに給付額の40〜100%を追加で請求される
飲食店で多い「熱い油がはねて火傷」「包丁で指を切って縫合」くらいなら数万円で済むかもしれない。でも、「通勤中の交通事故で入院3ヶ月」「フライヤーに手を突っ込んで後遺障害」となれば、補償額は数百万〜数千万円に膨らむ。
月600円の保険料で、その全額がカバーされる。入らない理由がない。
届出の手順
| ステップ | やること | 期限 | 届出先 |
|---|---|---|---|
| 1 | 保険関係成立届を提出 | 雇用開始から10日以内 | 労働基準監督署 |
| 2 | 労働保険概算保険料申告書を提出+保険料を納付 | 雇用開始から50日以内 | 労働基準監督署 or 金融機関 |
届出用紙は労働基準監督署でもらえる。持っていくものは、登記簿謄本(法人)または賃貸借契約書(個人)、労働者名簿。
②雇用保険──週20時間以上のバイトがいるなら加入
雇用保険とは?
従業員が仕事を辞めたときに失業給付(いわゆる失業保険)を受けるための制度。 従業員側のメリットが大きい保険。
加入条件
2つの条件を両方満たす従業員は、加入させる義務がある。
| 条件 | 内容 |
|---|---|
| ① | 1週間の所定労働時間が20時間以上 |
| ② | 31日以上継続して雇用される見込みがある |
例外: 昼間の大学生は原則対象外(夜間・定時制の学生は対象)。
つまり: 週3日 × 7時間 = 21時間のバイトは対象。週2日 × 5時間 = 10時間のバイトは対象外。
保険料
| 項目 | 料率(令和7年度) |
|---|---|
| お店の負担 | 給与の 0.95%(9.5/1,000) |
| 従業員の負担 | 給与の 0.55%(5.5/1,000) |
| 合計 | 給与の 1.5% |
計算例: 月給20万円のアルバイトが1人
- お店の負担 = 200,000円 × 0.95% = 月1,900円
- 従業員の負担 = 200,000円 × 0.55% = 月1,100円(給与から天引き)
届出の手順
| ステップ | やること | 期限 | 届出先 |
|---|---|---|---|
| 1 | 雇用保険適用事業所設置届を提出 | 雇用開始月の翌月10日まで | ハローワーク |
| 2 | 雇用保険被保険者資格取得届を提出 | 同上 | ハローワーク |
持っていくもの:労働保険の保険関係成立届の控え(先に労基署で手続きを済ませてからハローワークに行く)、雇用契約書、出勤簿、賃金台帳。
注意: 労基署での手続きが先。ハローワークでは「労災保険に入っていますか?」と確認される。順番は 労基署 → ハローワーク。
③社会保険(健康保険+厚生年金)──個人経営なら義務なし、法人なら義務
ここが一番混乱しやすい。
個人経営の飲食店の場合
結論:加入義務はない。
飲食店は健康保険法上の**「非適用業種」**に分類されている。そのため、個人経営の飲食店は、従業員が何人いても社会保険(健康保険+厚生年金)の加入義務がない。
従業員は自分で国民健康保険+国民年金に加入する。
ただし、任意加入は可能。 従業員の半数以上が同意し、事業主が申請すれば「任意適用事業所」になれる。手厚い保障を提供することで採用面でのメリットはあるが、保険料負担は大きい。
法人(株式会社・合同会社)の飲食店の場合
結論:従業員1人でも加入義務あり。
法人は業種に関係なく、代表者1人だけの会社でも社会保険に加入する義務がある。
保険料(法人の場合)
| 項目 | 料率(東京都・令和7年度) | 事業主負担 |
|---|---|---|
| 健康保険(協会けんぽ) | 9.98% | 約5% |
| 厚生年金 | 18.3% | 約9.15% |
| 介護保険(40歳以上) | 1.59% | 約0.8% |
| 合計 | 約30% | 約15% |
計算例: 月給20万円の従業員1人(法人の場合)
- お店の負担 = 200,000円 × 約15% = 月約30,000円
個人経営なら月0円、法人なら月約30,000円。 この差は大きい。
2029年10月からの制度変更
現在は「非適用業種」で免除されている個人経営の飲食店にも、変化が迫っています。
2029年10月以降: 個人事業所で従業員が常時5人以上いる場合、全業種で社会保険の加入が義務化される方向で法改正が進んでいます。
つまり、いま従業員5人以上の個人飲食店は、あと3年で社会保険料の負担が発生する可能性がある。
ただし、以下の点は留意が必要です:
- 2029年10月の施行時点ですでに存在している事業所には経過措置が設けられる見込み
- 従業員が常時4人以下なら、当面は影響なし
- 最新の情報は厚生労働省や年金事務所で確認すること
コストシミュレーション──月給20万円の従業員を1人雇うとき
実際にいくらかかるのか、月給20万円のケースで計算します。
個人経営の飲食店の場合
| 保険 | 月額(事業主負担) | 計算式 |
|---|---|---|
| 労災保険 | 600円 | 200,000 × 0.3% |
| 雇用保険 | 1,900円 | 200,000 × 0.95% |
| 社会保険 | 0円 | 非適用業種のため |
| 合計 | 月2,500円 | 年約30,000円 |
月給20万円に対して、追加のコストは月2,500円(給与の約1.25%)。
法人の飲食店の場合
| 保険 | 月額(事業主負担) | 計算式 |
|---|---|---|
| 労災保険 | 600円 | 200,000 × 0.3% |
| 雇用保険 | 1,900円 | 200,000 × 0.95% |
| 健康保険 | 約9,980円 | 200,000 × 4.99% |
| 厚生年金 | 約18,300円 | 200,000 × 9.15% |
| 合計 | 月約30,780円 | 年約369,360円 |
月給20万円に対して、追加のコストは月約30,800円(給与の約15.4%)。
個人経営と法人の差:月約28,300円、年約339,000円。
法人化を検討するときは、法人税の節税メリットと社会保険料の増加を天秤にかける必要がある。この判断は税理士に相談するのが確実。
届出の順番とスケジュール──1枚でわかるフロー
従業員を雇ったら、次の順番で手続きする。
| 順番 | 届出先 | やること | 期限 |
|---|---|---|---|
| 1 | 労働基準監督署 | 保険関係成立届を提出 | 雇用から10日以内 |
| 2 | 労働基準監督署 or 金融機関 | 概算保険料申告書を提出+保険料を納付 | 雇用から50日以内 |
| 3 | ハローワーク | 雇用保険適用事業所設置届+被保険者資格取得届を提出 | 翌月10日まで |
| 4 | 税務署 | 給与支払事務所等の開設届出書を提出 | 給与支払開始から1ヶ月以内 |
| (法人のみ) | 年金事務所 | 健康保険・厚生年金の資格取得届を提出 | 雇用から5日以内 |
一番重要なのは順番。 労基署が先、ハローワークが後。ハローワークでは労災保険の加入を確認されるので、労基署の手続きが終わっていないと受け付けてもらえない。
よくある失敗4つ
失敗①:「バイト1人だけだから保険はいらない」
間違い。 労災保険は従業員の人数に関係なく、1人でも雇ったら加入義務がある。週に数時間しか入らないバイトでも同じ。「小さい店だから」「短時間だから」は理由にならない。
失敗②:「うちは個人経営だから保険に入らなくていい」
半分正しく、半分間違い。 社会保険(健康保険+厚生年金)は確かに義務がない。しかし、労災保険と雇用保険は個人経営でも義務。この2つを混同して「何も入らなくていい」と思っている人が多い。
失敗③:届出の期限を過ぎてから手続きする
労災保険の届出は10日以内。この期限はかなり短い。開業前から「アルバイトを雇ったらすぐ届出」と覚えておく。期限を過ぎても届出はできるが、遡って保険料を支払う必要がある。
失敗④:「家族だから保険はいらない」と思う
同居の家族だけで営業している場合は労災保険の対象外。ただし、家族以外の従業員が1人でもいれば、家族も含めて事業全体が労災保険の適用対象になる。
2026年10月の変更点──「106万円の壁」撤廃
2026年10月から、社会保険の「106万円の壁」が撤廃される予定です。
| 現在 | 2026年10月以降 |
|---|---|
| 月額8.8万円以上の賃金がないと社保加入義務なし | 賃金額の要件が撤廃 |
| 企業規模51人以上が対象 | 企業規模の要件も撤廃 |
ただし、これは「社会保険の適用事業所」に限った話です。
個人経営の飲食店は「非適用業種」なので、106万円の壁が撤廃されても当面は影響なし。 影響を受けるのは法人の飲食店です。
法人の飲食店では、いま「年収106万円以内に抑えてシフトを組んでいる」パートがいる場合、10月以降は社会保険の加入対象になり、事業主の保険料負担が増える。
政府は3年間の時限措置として、従業員の保険料を事業主が肩代わりした場合、その約8割を国が還付する支援策を用意する方向で調整中です。法人の飲食店は、この制度の活用を検討する価値がある。
チェックリスト──従業員を雇ったら確認する
全員必須(個人でも法人でも)
- 労働基準監督署に保険関係成立届を提出した(雇用から10日以内)
- 労働基準監督署に概算保険料申告書を提出+保険料を納付した(雇用から50日以内)
- ハローワークに雇用保険適用事業所設置届を提出した(翌月10日まで)
- ハローワークに雇用保険被保険者資格取得届を提出した
- 税務署に給与支払事務所等の開設届出書を提出した(給与支払から1ヶ月以内)
- 従業員全員の雇用契約書を作成・保管している
- 出勤簿と賃金台帳をつけ始めた
法人のみ追加
- 年金事務所に健康保険・厚生年金の資格取得届を提出した(雇用から5日以内)
- 従業員の健康保険証を受け取り、本人に渡した
年1回の手続き(忘れやすい)
- 毎年6月〜7月に労働保険の年度更新(前年度の確定保険料+今年度の概算保険料を申告・納付)
この記事のまとめ
- 労災保険は1人でも雇ったら必須。 保険料は全額事業主負担。飲食店なら給与の0.3%(月給20万円で月600円)
- 雇用保険は週20時間以上のバイトがいたら必須。 事業主負担は給与の0.95%
- 社会保険は個人経営なら義務なし。 法人なら義務あり。事業主負担は給与の約15%で、ここが大きなコスト差
- 届出の順番は労基署→ハローワーク→税務署。 期限はそれぞれ10日・翌月10日・1ヶ月
- 2029年10月以降は個人経営でも5人以上で社保義務化の方向。 先の話だが、人を増やす計画がある店は頭に入れておく
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